神奈川県 武内 道子さん

周気堂治療室へ初めて伺ったのはいつだったか、少し長い間前触れをお許し願いたい。
私は娘時代「病気の問屋」というレッテルを貼られ、生後2年から娘時代ありとあらゆる病気をした。死に損ねた経験は2回、失明の危機に立たされたのが1回、結婚はできないと思ったほうがいいと両親は告げられていた。手に職をもたせるか、財産を残してやらねばならないと両親は覚悟したという。私がそれを知ったのは結婚してからで、しかも他人からであったのが幸いだった。そしてもっと辛いことに結婚して6年後、33歳で一子を授かったのである。
結婚して丈夫になったというか、体が活性化したとでも言ったらいいか。私は風邪もひかなくなった。妻として、母として、教師としてフルの毎日、少し有頂天になっていたのかもしれない。神がお前の原点を見せてやろうとでも思召したのか、50の声を聞く2年前に大量の喀血をした。その前数か月咳が止まらず、やがて血痰になり、ドッと、それも検査を受けに行った医者の前である。
即入院、精密検査のハイライトが気管支鏡であった。お分かりのように気管支は少しの異物が入っただけでむせぶ。寒い手術室の担架の上で、左右横向け、俯せ、咳を止めろという絶え間ない指示の下、麻酔といえば数分おきにのどにキリをかけるだけで、4時間余りもカメラをいれていた。始まる前は30分で終わりますと言われたのに、である。
おそらくすぐにでも悪性腫瘍が見つかるだろうと医師たちは確信していたに違いない。ところが枝分かれしている気管支を奥へ奥へとカメラを入れても何も見つからなかった。ついた病名が「右肺中葉症候群」。カメラに映らない深部に「何か」ある、要するに、原因は「わからない」とは言えないので、苦肉の病名をつけたのであろう。すでに入院と血痰は収まり、咳もほとんど出なくなっていたので、2週間の休養を得てありがたく退院した。
授業が始まり、ひと月もするとまた痰が出始めた。起きて1,2時間でおさまるときもあれば、昼まで、調子の悪い時は夕方まで続くこともあった。しゃべるのが商売なので苦しいと思うこともしばしばだった。今度血痰が出れば、もう胸を切開するしかないと「脅されたいた」ので、何か治療法を思っていた時、知人にこの治療室を紹介されたのである。
「病気を治すのは医者でもない、薬でもない、あなた自身です」というまずこの先生のことばは、スーッと受け入れられた。病気の都度、小児科、内科、呼吸器科、眼科、耳鼻科と渡り歩いてきた私には、一人の親分の下、子分たちが体のあちこちに様々な症状をもって現れるのだ、といった思いが何となく植えつけられていた。(内科と眼科で治療のための薬がおなじ名前だったということをみても。)対症療法的にもぐらたたきのようにその都度子分をたたいても、親分をやっつけなければ健康体は得られないと悟っていた。痛みや痙攣を止めるための注射や頓服薬による薬害もしっかり経験していた。「治療はあなたの今の治癒力を高めるもの」であって、即痛みが取れる、動けるようになるといった即効的なものではないという治療室の説明は納得できるものであった。
私にとって「奇跡」と思われる受療のことを話したい。ロンドン大学での1年の在外研究を終えて帰国して半年たったころ(97年の暮れ)。右足の甲から親指にかけてものすごく痛み、腫れもあり、歩くどころか靴も履けなくなった。打った覚えも転んだ覚えもなく、突然のことである。先生に「どこか頭の左部分を打った覚えはないか」と尋ねられた。頭を打ったといえば、ロンドンへ着いて3か月、乗ったタクシーが動き始めたとたんすぐブレーキをかけた。直前を老婆が横切ったのである。ロンドンの黒塗りタクシーは運転手席と客席の間に厚い防弾ガラスがあるが、これに私はイヤというほど「前頭葉」を打ち付けたのである。
救急病院に運ばれて、その時の講演会を反故にするほど夕方までかかって検査をされたのはもちろんである。異常は見つからなかったし、数日はかったるかっただけでその後は忘れてしまっていた。先生にこの話をすると、それが原因とおっしゃった。でももう1年以上も前のことですよとつい大きな声でいったら、1年前なんて短いほうで、20年も経って症状が出てくることも稀ではない、歳をとって出てきた症状が子どもの時の事故に起因することはよくあるのだと説明された。「左脳」がやられたのですねと言われた。言語障害は「右脳」、運動障害は「左脳」ということを想い出した。整形外科に行ったら、レントゲンを撮って貼薬をくれただけで様子を見ましょうでおわり。原因もどうなっているのかわからないから、治療法も見当がつかないといういわば「放棄」である。そうだろう、身体のてっぺんと足の甲がもろに関連していることは普通では考えられない。
ごく近いところでは、2年前に背骨を2本圧迫骨折した。この時も整形外科でレントゲンを撮ったあと、コルセットをするよう指示され、痛み止め薬を注射され、飲み薬を調合された。注射は止めることができないが、内服薬はもらっても私は服薬しない。「痛いのは生きてる証拠」と思う覚悟(!?)ができているし、痛みをやわらげたら動いてしまうから直りが遅くなるとも信じている。しかし、病院で装具したコルセットを先生がすぐ外せとおっしゃったのには驚いた。その代わり先生のところのコルセットをつけたところ、かなりすぐに手足が暖かくなってきたのにはもっと驚いた。ゴム製のものを直接装着することは体を冷やすのだと悟った。
近代医学では全体は部分の集合という考えに根ざしている。もちろんこう考えることによって医学が進歩したことは否めない事実ではある。しかし心身の健康というのは、体を「丸ごと」捉えることによって得られるのである。これが人のもつ自然治癒力であり、外敵に対して戦ってくれる武器である。自然治癒力がオーバーキャパシティに至ったとき、体は不調を訴える。私は発熱と下痢は歓迎すべきものと思っている。もちろん頻繁に起こっては困るが、限界を超えましたというSOS、動きすぎ、食べ過ぎ飲みすぎを悟らせ、休めという神の声であると心得る。横になり、消化のいいものを食べ、そして周気堂室のドアを開ける。鈍った治癒力を今の自分に精一杯までもっていってもらう。
治癒力を備えた身体のセンサー機能は飲み薬、貼薬、注射などによって鈍らされてしまうことを私たちは悟らなければならない。体の不調にどこかが悪いに違いないと思わないか。何もしてくれない医者を「頼りない医者」と思う風潮がありはしないか。身体は一家、もぐらたたきをしていては丸ごとの健康は得られない。自己に備わった治癒力を信じること、私の身体はいいセンサーだと思うこと、このことが私を周気堂治療室に永年通わせる(非常に規則的にというのではないが)。文字通り「信じる者は救われる」楽天家である。
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